32. 若山牧水夫婦歌碑
 若山牧水は、本名繁、明治十九年九州宮崎に生まれ、父は医師で立蔵、母はマキ、敬愛する母の名と好きな渓流の水を合せて牧水と号し、終生変えなかった。明治四十一年早稲田大学を卒業したあと、明治四十三年短歌誌「創作」を創刊、第三歌集「別離」の刊行により、文学界に爆発的な人気を得た。牧水は、妻の病気療養のため大正四年三月下浦に住み、翌五年十二月に東京に引き揚げた。二年足らずの短い期間であったが、漂泊歌人といわれた牧水の生涯にとっては終焉の地沼津に次いで、ながい滞在であった。当時の歌壇では既に名声があったが、下浦では知る人もなく、親子三人貧しいながら平和な日々を過ごし、「することもなく」といいつつも歌集「砂丘」「朝の歌」随筆「旅とふる里」等、多くの作品を残している。「親切なお医者」津久井の田辺久衛医師が一家の主治医であったが没後その後を継いだ秀久医師は、昭和二十六年独力で牧水歌碑の建立を志した。しかし、病に臥し断念せざるを得なくなったとき、横須賀観光協会がこれを引き継ぎ、昭和二十八年十一月三日文化の日に除幕された。

しら鳥はかなしからずや、そらのあを、海の青にもそまずたヾよふ
牧水


うち煙りのこぎり山も浮かび来と今日のみちしほふくらみ寄する
喜志子
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